sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ヴォコーダーは愛を不能にする


 私がよく読ませてもらっているブログで、ずいぶん前からPerfumeの名前を頻繁に目にする。「違う人、3人が同じことを言っていたらチェックすべし」を信条としているため、最近になって私もYoutubeで調べて聴いてみたのだが何曲か聴いて「ダメだ、これは俺には《愛せない》!」と思ってしまった。楽曲は耳に優しく、よく練られている。歌詞もまったく中身がなくてポピュラー・ソングとして最高の出来である。しかし、問題はヴォコーダーである。そこを突っ込んだら元も子も無いんじゃないの?と思われるかもしれない(ヴォコーダーによって変調されたヴォーカルの「未来っぽい演出」がウリのひとつなんだから)。しかし、このヴォコーダーこそがPerfumeがアイドルとして愛されるための必要なものを決定的に損なっているように思う。もっと単純に言ってしまうと、このエフェクトは、Perfumeから固有性を奪い取ってしまう。

 “「愛する」という行為は、固有性(固有名)を愛することである”と立川健二は言っている*1。例えば、松田聖子には愛されるべき固有性がキチンと存在していた。歌い方ひとつとっても彼女の歌い方には、他の人にはない特徴が備わっている(歌が盛り上がる箇所で、言葉の後に鼻から抜けるような小さな『ン』を入れるクセを聴き取ることができる)。しかし、人は「そういった特徴があるから」彼女を愛していたわけではないだろう。顔であったり、髪型であったり、数々のスキャンダルであったり、そういったものが「松田聖子」という固有名のなかには含まれている。その固有名は何かにとって替えることができない。

 「まねだ聖子の愛せなさ」は、その固有名の代替不可能性を証明している。たとえ、まねだ聖子がいかに松田聖子と同じような属性を持っていたとしても、松田聖子を愛するものが同じようにまねだ聖子を愛することはできない。どのような努力を払っても、まねだ聖子松田聖子を愛するものにとって「松田聖子的な何か」でしかない。そして、それは松田聖子という固有名とは決定的に異なったものである。また極めて「松田聖子的な何か」に、嫌悪感や不気味さを感じることもあるだろう*2

 Perfumeを聴いていて「エフェクトをかけちゃったら誰が歌っても一緒なんじゃないの?」と私は率直に思ってしまう。だから、私はそこに固有性の無さを感じてしまうのだ。同時に、彼女たちの代替可能性も強く感じている――「メンバーが変わってたりしても、全然気がつかないんじゃなかろうか?第一今の3人のメンバーの声も聞き分けられない!」。私の耳が悪いだけかもしれないが、これは愛されるべきアイドルとして致命的なのではないだろうか?「ここにはアイドル・グループは存在しない。あるのは中田ヤスタカの楽曲だけだ」なんて言ってしまってもいいかもしれない。

 Perfumeの大ファンだと言う方には「アナタは彼女たちの何を愛しているのですか?」と問いたい。このように一般名詞化されたアイドルを愛する、ということはオタクの要素萌え(猫耳だから-萌える!)と同様にコンビニエンスな快楽しかもたらさないように思うのだが……。同じ女の子3人組ならPerfumeよりもShaggsを選ぶよ、私は。

*1:誘惑論―言語と(しての)主体 (ノマド叢書)

*2:松田聖子を愛するか、それともまねだ聖子を愛するか」、そういった問題は証明不可能な問題でもあるのだが