暴力について、または非暴力的に暴力を批判することは可能か
約束された場所で―underground 2posted with amazlet on 07.04.30
村上春樹の取材によって書かれた2冊の“オウム本”を読んで思ったのは、世の中には二種類の暴力がある……ように見せかけて一種類の暴力しかない、ということだ。
ひとつに我々の目には悪意によってなされる暴力がある、ように見える。これは至極簡単な話だ。『アンダーグラウンド』でインタヴューを受けている地下鉄サリン事件の被害者は、そのような悪意によって行使される暴力によって、生活をメタメタに破壊された――ように世間的には思われている。なんだかよくわからないカルト宗教の指導者、麻原彰晃はとっても悪いヤツで、何人もの命を無碍に奪った人間は許しがたい、というのが事件以降の「ごく一般的な意見」を占めるものなんじゃなかろうか。
我々の前にこのような「すごく分かりやすい暴力」が振りかかったとき、我々がそれを「許しがたい」と思うこと――これはとても正常な反応のように思われる。また、「事件を起こしたアイツらは、悪いヤツだ」と評価することは、裏を返せば「私はアイツらとは異なった人間である」と表明することでもある。このとき、社会には「正義感」が生まれている(この正義感の作動によって“正常な社会”と“悪”は線引きがなされ、正常な社会の正常さは防衛されることになる)。
繰り返しになるけれど、これはとても自然な反応だ、が、個人的には現実に「アイツらは悪いヤツだ」と言い切ってしまう人を目の前にすると、ムッと来てしまわないこともない。テレビで古舘伊知郎(久米宏でも良い)が「何故このような事件が起こってしまったのか、私には理解できません」とコメントしているのをみると私はムッと来るタイプの人間なのだが、このときのムッという感じと「アイツらは悪いヤツだ」と言ってる人を見たときの感じはとても似ている気がする。しかし、それは「ケッ!こんなときばっかり善人ぶりやがって!!(お前らだって悪いことたくらんだことぐらいあるだろ!!)」という反感ではない――一言で言うとこれは、偽善への敏感な拒否感だ。
私がムッとくるのは、正義感を行使する人間の単純な無神経さである。「アイツらは悪いヤツだ!」と思うこと、それ自体はとても自然なものとして捉えられるのだけれども、その正義感が一つ間違えば暴力に転向することを意識しているのだろうか。そして、そのとき生まれる暴力が、先に示していた「悪意によってなされる(ように見える)暴力」と全く論理的には一緒で、新たに生まれた暴力のほうがそれを生み出した暴力よりもよっぽど性質が悪いことに気がついているんだろうか、と私は思ってしまう。
正義感溢れる人物は、ときどきこんな発言をするだろう――「あんなことをやる犯人は、早々と死刑にされたほうが良い。生きていても世の中のためにはならないし」。その一方で過去にこんな風に考えていた人物がいる――「あんなことをやる弁護士は、早々とポアされたほうが良い。生きていても教団のためにならないし」。果たして、両者の考えが「異なったものだ」と言えるだろうか。私には、そう思えない。というか「考えていることが一緒じゃん」と思ってしまう。
だから、暴力には一種類しかない、と私は思う。何故なら、弁護士を殺した犯人の動機も教団を守るという“彼らなりの正義感”によって基礎付けられている。悪意によって行使される(ように見える)暴力も、その後に過剰な正義感によってなされる暴力も、実は正義感によって正当化された同種の暴力なのだ。しかし、後者は“あまりに自然な反応”であるせいか、気づかれず、何のお咎めもなく行使されることが多い。違いと言えば、それぐらいである(そういえば、ナチス・ドイツでも合法的にユダヤ人を虐殺してたんだよな)。
オウム信者・元信者に対するインタヴュー記事を掲載した『約束された場所で』には、端的に言ってそのような「合法的に行使される、無神経な暴力」の被害報告が多く寄せられている。なかでも、信者が事件後「生活のために」苦労して準備したパン屋が「オウム信者の店!」とマスコミで報道されたことが発端で嫌がらせを受け、開店のための努力が水の泡になってしまった、というものが一番私の心に堪えた。これは正直に「うわぁ…気の毒だなぁ……」と思ってしまう。だって、その信者の人だってなんとか生活を立て直そうとしてパン屋を始めたわけでしょう?そこには明確に“生きようとする意志”があるわけで、それに対して嫌がらせをしてる、って完全なる人権無視じゃないか!
このような一見暴力に見えないまま行使される暴力は、ヴァージニア工科大学での銃撃事件に関する誤報(犯人は銃マニアの中国人留学生、というもの)によって引き起こされたブログ炎上事件にも感じる(こういった暴力の構造は、何もオウム事件に限ったものではないのだ)。そこに書き込まれた誹謗中傷には、ネット市民による過剰な正義感の発露が見受けられるだろう。しかし、それは誤報であったために見事に空転し、怒りと正義感によって書き込まれた言葉の数々は一瞬にして「暴力が行使された傷跡」へと転落した。この空虚さから我々は何か学べないのだろうか。
――こんな風に考える一方で、私はこのようにも思う。
「暴力を行使する者に対してそれは『暴力的である』と批難することも暴力的なのではないだろうか」。
『アンダーグラウンド』から私が読み取ったもののもう一つに「世の中は案外善意によって回っている」というものがある。事件直後のサリンが充満する地下鉄駅構内で、自分の体もボロボロなのに何人かの人が必死で人命救助に参加する、そこには善意が感じられる(しかし、その善意のために自分の命を落とした人もいる)。『アンダーグラウンド』を読みながら、私は何度か泣いてしまったんだけれど、その理由は、暴力があまりにも残酷にそのような善意を摘み取っていった事実がそこに書かれていたからだ。自分がそのように立派な人物ではない(し、『世界なんて消えてなくなってしまえば良い!』と常日頃願うようなタイプの十代を過ごしていた)から、余計に「あぁ、世の中って結構良い人たちがいるんだな」ということで、すごく純粋に感動してしまった。
しかし、だからこそ複雑である。何故なら、過剰な正義感で暴力を行使する人が、きっと「結構良い人」だから。彼らは純粋に自分の正義感を信じて暴力を行使する(自分は痛くも痒くもないのに、銃で撃たれて亡くなった大学生の死について悲しみ、そしてブログを炎上させた)。その人たちに対して「あんたらのやっていることは暴力的だよ」と批難することは、私自身が古館伊知郎的な無神経さをもっているといえないだろうか、またそれは暴力の行使ではないだろうか、と私は思う。このような点で、メタ的な視点で暴力を批判することは不可能であるように感じる(それ自身が暴力性を帯びてしまうから)。神経質な話かもしれない(また、どうでも良い話かもしれない。すべてが。この長いエントリを読んでくださった貴方に敬意と感謝の意を表したい)。しかし、暴力と対峙するためには出来る限り非暴力的に暴力と立ち向かわなくてはいけないのだ。もしかしたら、暴力-非暴力という軸で捉えるのでは全く有効でなく、もっと別な問題との向き合い方があるかもしれないけれども。