sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

リヒテル――間違いだらけの天才


 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。


 「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。


 気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。

スクリャービン&プロコフィエフ
リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ
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 リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全土を車で旅して、ウラジオストックから日本に来る」だとか。大体ピアノもほぼ独学で、音楽学校に入るのも22歳になってからのこと(しかも、3回も退学処分をくらっている)。スタジオ録音も大嫌いで、現在耳にすることのできる彼の録音の大部分がライヴ録音だ。そんな変人だから、プロコフィエフの作品と相性が良いのは当たり前の話なのかもしれない。プロコフィエフ作品のフランス風のエスプリと前衛的なピアニズムの複雑な絡み方が、リヒテルの演奏だと実に明晰なものとして現れてくる*1

リヒテル
リヒテル
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ブリューノ・モンサンジョン Bruno Monsaingeon 中地 義和 鈴木 圭介
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 ちなみにリヒテルの変な逸話に関してはブリューノ・モンサンジョンによる伝記が詳しい。モンサンジョンという人はグレン・グールドの伝記やインタビュー集なんかも書いている人で、そちらもかなり面白いんだけど、この人を介してリヒテルとグールドという「二大変人」が親交を持っていた、という話もこの本にある。笑ってしまうのがグールドが「一度カナダに会いに来てくれないか」と手紙を書いて送ったのに対して、リヒテルが「お前がもう一回モスクワに来い。そしたら俺も行ってやるよ」とつき返すところ。変人同士認め合うところがあったらしく、どちらも「あいつはすげぇ」と賞賛していたそうな。

ソフィア・リサイタル
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 「数あるライヴ録音の中で最もリヒテルらしい一枚はどれか?」と言われたら、やはりムソルグスキーの《展覧会の絵》を演奏したブルガリアでのライヴになる。1958年、それまで父親がドイツ人だったせいで「スパイ容疑」をかけられたり、亡命されたら困る……という理由でなかなか西側諸国にリヒテルの姿が伝えられず「生きる伝説」と化していたんだけれど、この録音でやっと「こりゃあすげぇピアニストがいるもんだ!!」と絶賛されたという名盤。リヒテルの代名詞でもある「ミスタッチ」も冒頭から登場。その強烈なタッチは《展覧会の絵》の「バーバ・ヤーガの小屋」で嫌と言うほど聴けるけれど、ラフマニノフの《前奏曲第23番》の細やかで美しい演奏も聴きどころ(テンポは超速い)。岩みたいな顔してるのに、意外と繊細だ。


 長くなりすぎたので、明日もリヒテルについて書きます。