sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

渋谷毅オーケストラ @新宿ピットイン

とても当たり前のことだけれど、テクニックだけが音楽ではないし、楽譜だけが音楽なわけでも、録音だけが音楽なわけでもない。しかし、さまざまな音楽の形式や様相があるなかで、今この瞬間にここでしか聴けないものに触れたのだという直観が訪れることはたしかに存在する。私が本当に大切にしたいと思う音楽は、そうした瞬間の「この音楽」、「あの音楽」であり、そうしたものどもを愛おしく、慈しみたい、と考える。この日聴いた渋谷毅オーケストラのコンサートもそのような幸福な一晩だった。


日本のジャズ黎明期を支え、児童歌謡をたくさん書き、今なお第一線で活躍するジャズ・ピアニスト、渋谷毅の功績は振り返ろうにも振り返えきれないものだろう。柔らかく、穏やかな彼のピアノの音が空間に広がったとき、ハッとするのはその軽やかなトーンについてだ。魔術的な和音の錬金術ではない、息がスッと通るような音の選び方に思わず気持ち良くなってしまう。この音にブラスが重なることで生まれるハーモニーは、もはや天国的とさえ言えるのだが、それはアッパーかつゴージャスな天国ではなく、平穏で牧歌的な天国、もうとにかく良い塩梅なので椅子のなかで溶けるのでは、と思った。


ステージにあがっているミュージャンの半分以上が60代を超えた超ベテラン。そうした光景だけだって日本のジャズの円熟なりなんなりを感じさせ趣深い気持ちになってしまう。演奏者の体力の衰えを感じさせない、というわけではない。むしろ、そうしたものが聴き手に丸わかりになってしまい、極度のユルさが発生していたのも印象的だった。しかし、それすらも良い。ソロで吹き続けられないこと、演奏が終わると座り込んでしまうこと。若いミュージシャンのコンサートならあり得ない様子で、素晴らしい音を響かせているのだから油断がならないのである。


ホントに良い気持ちになりましたよ。また聴きたい。

2011年に読んだ本を振り返る

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引き続き、今年読んだ本を振り返ります。57冊。今年は英語の本を読むようにしたり、ラテン語の勉強を始めたりしたのであんまり数が読めてないのかな〜、と思いきや、去年よりも数は読んでいました。こうしてみるとリストから社会学の本が消え、代わりに思想史関連の本が入り込んでいて、自分の興味がまったく変わってしまったことよくわかります。また小説をあまり読まなくなりましたね。村上春樹の『東京奇譚集』の登場人物ではないですが、フィクションには当たり外れがあっても、ノンフィクションではそこまで外れが無いし、何らかの事実を知識として得られることが良いです。小説も歴史も物語として読んでいるところがあるので、読んでいるものが変わっていない、とも言えるのですが。


以下にいくつか得に印象的だった本をあげておきます。

魔の系譜 (講談社学術文庫 (661))
谷川 健一
講談社
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諸星大二郎に多くの元ネタを提供している民俗学者谷川健一の代表作。タイトルどおり日本における「魔」についての信仰を記述したものですが、日本に古来より伝わってきた幻想的な歴史記述がとても面白く、マジックリアリズムさえ感じさせる歴史書です。こうした日本の精神史も面白いなあ、と思った次第。

伊達政宗の遣欧使節
伊達政宗の遣欧使節
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松田 毅一
新人物往来社
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これもまた日本の歴史についての本です。伊達政宗がヨーロッパに送った使節団の真相について記述した本。日本がヨーロッパと出会うことによって南蛮文化が生まれたことは中学生でも知っていることですが、この折衷主義というかマージナルなものが急に面白く感じられてきました。本書には「南蛮」から見た当時の日本の姿もあり、興味深かったです。

2011年に買った新譜を振り返る

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今年もいっぱいCDを買いましたが、新譜については以上の39枚。たぶん過去最多枚数ですが今年はブラジルものにハマってしまい、ディスクユニオンの新譜情報にがっつり踊らされてた、というのが影響しているのでしょう。そんななか今年最も印象的だったものとして、こちらのアルバムを挙げさせていただきます。

武満徹ソングブック
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ショーロクラブ with ヴォーカリスタス
SONG X JAZZ Inc,. (2011-08-31)
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9月にパリ旅行から帰ってくる飛行機のなかでこのアルバムを聴き、日本語の響きがとても柔らかく、優しく聞こえたことが記憶に残っています。言葉の響きがバンドリン、ギター、ベースの室内的な響きと調和して、今年の気分によく馴染んだような気もします。毎年10万枚ぐらい売れて欲しい大名盤。日本で活躍する素晴らしい歌手たちとめぐり会える一枚でしたし、コンサートも素晴らしかったです。


上記にあげたリストを眺めていると、今年買った新譜はどれも印象的なものが多い気がします。意外と暇だったのかな、普段よりじっくりと音楽を聴いていた気さえする。流れる時間の感覚はとっても速かったけれど、引き続き素敵な音楽とともに生活がしたいと思います。もちろん、そうした喜びを享受できる幸福を確認しながら。

荒木飛呂彦 『ジョジョリオン』#1

ジョジョの奇妙な冒険』第8部「ジョジョリオン」の舞台は第4部の舞台となった杜王町。だが、第7部の「スティール・ボール・ラン」と同様に第6部以前の物語とはパラレルな世界での話となる。


第6部のクライマックスで「世界が一周し」、第7部では複数次元の平行世界を行き来するなど、ジョルダーノ・ブルーノ的(主人公の武器が無限の回転!)というか、量子論的というか、とにかく大変なことになっている、としか言いようがない世界でストーリーが展開されてきた。第8部の冒頭では、「3月11日」に大地震が起きたことが示される。杜王町宮城県仙台市青葉区がモデルとなっている)の地面は隆起し、奇妙な「壁」が現れる。この壁については、今のところ、善悪の評価がされていないが、第8部の舞台が物語外の現実と密接な平行世界であることが示される。


第7部の途中から『ジョジョ』は月刊連載に変わり、振り返ってみれば変更直後は物語のペースと刊行ペースとの足並みが揃わない感じで緊迫感にかけた展開が続いていたように思う。それが終盤、密度と緊迫感、そして設定の難易度がどんどん高まっていき、以前の荒木飛呂彦のパワーへと完全に復調して最後を迎えた。そして、この第8部では完全復調状態のまま謎の多い物語の冒頭を駆け抜けている。第7部での移動しながらの闘いという新しい試みから、第4部で描かれた密室での闘いへの回帰も「やっぱり、荒木飛呂彦はこれなんじゃないか」と思わせるものだ。


主人公のスタンド使いが、トマス・ピンチョンに似ていること。荒木飛呂彦がどうやら「テンドン」という古典的な喜劇の手法を覚えたらしいこと。気になる点は盛りだくさんだが、新しい物語が始まったこと、それがとても面白いことが嬉しくて仕方ない。早く続きが読みたいィィィッ!

首都を歩こう《Tokyo Walkers》第2回(沢井 - 奥多摩)

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流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》*1の第2回イベントが2011年12月17日に開催されました。今回は、青梅線の沢井駅から奥多摩までを歩く山攻めのコースです。雲ひとつない快晴のなか午前11時から歩き始めました。

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小澤征爾×村上春樹 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
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タイトルをみかけて、著者の部分を確認すると「小澤征爾×村上春樹」とある。このふたりの組み合わせに驚いた人も多いだろう。かたや日本を代表する世界的指揮者であり、かたや日本を代表する作家、である。豪華過ぎるほど豪華な組み合わせと言っても何らおかしくはないのだが、ただ個人的には「小澤征爾の熱心なファンってどれぐらいいるんだろうな」というのが率直な印象だった。とくに熱心なクラシック・ファンにおいては、アンチ小澤派もいると思うし、なかには「なぜ、あんなに評価されているかわからない。あんなものに騙されている日本の聴衆は本当にレベルが低い」という強烈な意見を持つ人もいると思う(その評価はもてはやされ方が気に食わない、という音楽的な内容とはまるで関係がないことに所以することもある)。周りを見回しても「小澤ファン」を自称する人は見当たらないし、一体誰が評価しているのか、とも思ってしまう。私の家にも小澤指揮のCDは2枚しかない。

メシアン:トゥーランガリラ交響曲
小澤征爾
BMG JAPAN (2007-11-07)
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ラヴェル:クープランの墓
水戸室内管弦楽団 小澤征爾
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント (1997-05-25)
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どちらも昔よく聴いたアルバムだ。メシアンのほうは今ではもっと録音・演奏ともに優れたものがあるけれど、水戸室内管との《クープランの墓》は同曲のベストと録音といっても良いブリリアントな演奏(オーボエ宮本文昭の音色が珠玉)。あと、長野オリンピックのときに出た世界の国家のアルバム、あれを友人に借りて聴いたっけ……ということを思い出す。


ひとりのクラシック愛好家として、小澤征爾の立ち位置について考えるたらこんなことが思い浮かんだ。もしもベートーヴェンブラームスを小澤で聴きたいか、と問われたら。彼が振るオーケストラがたとえサイトウ・キネンであっても「別に……」と答える気がする。「チケット、タダなんだけど」と言われたら喜んで飛びついちゃうけれども、録音で聴くなら特別な出会いでも無いかぎり食指が動かないだろう。オーソドックスな名曲にはそれだけの名演があるわけで、人生の限られた時間のなかではなかなか小澤征爾の演奏が入り込んでくる余地はない。入り込むには衝撃的なほど際立った個性が必要だ。それはある意味、玄人好みの指揮者、ということでもあるかもしれず、小澤征爾の指揮の素晴らしさについて他人が納得がいくように説明できる人は、豊かな音楽的耳を持ち、言葉も豊かな人だと考えられる。


日本で最も世界的に活躍する指揮者って、そんな人なんですよ(テレビで小澤がウィーン・フィル音楽監督になった〜、とか、ニューイヤー・コンサートを振った〜、とか、癌になった〜、とか、復活した〜、とか、また休んでる〜、とかのニュースを見て『へえ〜、この人はさぞかし素晴らしい人なんだろうな〜』と思っている方々に向けて伝えるならば)。ただし、現金なもので、癌による休養以降小澤征爾に対するクラシック・ファンの目線とは温かいものになっていると思う。まず「小澤なんてさ」と声に出して言う人はすごく少なくなったと感じるし。それほど好きでもなかった人たちまでなんとなく心配になって、早く良くなって欲しいね、と願っているような状況である。


もちろん、病人に対して「もっと悪くなれ!」と願う人はなかなか見つからない。でも、なにか小澤征爾だからこんなに「早く良くなって欲しいね」と思われるのかもしれないな、とも感じるのだから不思議な人だ。


学生時代に、東京文化会館ウィーン・フィルのオペラ公演の楽器搬入をするアルバイトをしたことがある。そのとき、私は小澤征爾が楽屋から出てきたのがちょっとだけ見れたのだった。黒い半袖のTシャツを着て、髪の毛はもじゃもじゃで「うわ〜、世界のオザワだよ〜」という風に一瞬感動したが、その瞬間の私は総額ン億円ぐらいはするであろうウィーン・フィルのメンバーのヴァイオリンが入った箱を運んでいるところであり、それどころではなかったのだ。それでも、ふらふらっ、と現れてスタッフとなにか話している世界のオザワの姿は強烈に記憶に焼き付いていて、思い返したらそうした不思議な印象と、小澤征爾という人間の印象はどこかでリンクしているのかもしれないな、と思う。


本の話を書こうと思ったのに思いがけず長くなってしまった。本を読んでいて、まず惹きつけられるのは、小澤が語る、バーンスタインカラヤンといった20世紀後半を代表する指揮者や、さまざまな音楽家との交流についてだ。これは純粋に「逸話集」として貴重な記録となっていると思う。そこにはグレン・グールドや、カルロス・クライバーの話もある。もう亡くなってしまった人ばかりかもしれないけれど、素晴らしい音楽家たちとの思い出がいっぱいに詰まっている。あんな人とも……こんな人とも……。考えてみれば、あの時代にクラシック音楽の世界で活躍していたら、そうした交流が生まれるのは当たり前だ。でも、小澤の他にはいない。そうした意味で、なにか小澤に対する有り難みが増したような気もする。


聴き手である村上春樹による言葉は、時折多弁すぎる箇所がある。とくにマーラーの音楽について語っている部分での、マーラーの音楽の雑多さや多層性に関する言及は、渡辺裕の『マーラーと世紀末ウィーン』を語りなおしているかのようで冗長に感じてしまった。

しかし、『アンダーグラウンド』でみせた優れた聴き手、優れた媒介者としての振る舞い方は本書でも充分に発揮されている、と言えるだろう。小澤征爾のあまりに音楽的な言葉を、音楽的な言葉ではない言葉へと置き換える手腕が素晴らしい。音楽は、言語とは違った《言語》であって、本来翻訳が不可能なものである。もしも音楽を言葉で伝えるようとするならば、それは抽象的な表現にならざるをえない。そして、その抽象的な表現は音楽をやっているものでなければ肉体的な感覚として理解できないもの、とも言える。もっと情熱的な音、もっと柔らかい音、もっとブリリアントな音を……! という要求に対して、本当に応えられるのはその楽器を演奏している演奏家だけであって、非音楽的な聴き手は「情熱的な音とはこういう音だ」と指摘するような批評によって、音楽と言葉をマッピングしなければ理解ができない。ここで村上春樹がおこなっているのは、まさしく非音楽的な聴き手のための地図を作ることだ。村上春樹自身は非音楽的な人間であるにも関わらず、それが可能となっているのは暗喩の力、イメージの豊かさなのだろう。


高校時代から10年近くアマチュアのオーケストラで演奏活動をしていた身として、村上春樹の筆致で翻訳されたオーケストラの内部の話は、そうしたオーケストラ活動での肉体的な感覚を生々しく思い出させるものだった。そのハイライトとなるのは2011年の夏におこなわれた「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」のルポタージュ的文章だろう。これは音楽が作り上げられていくプロセスを捉えた感動的な文章だった。ずっと苦労していたもの、できなかったこと、乗り越えられなかった壁が、練習の過程でいきなりできあがってしまう。音楽がいきなり何倍もの豊かさで響き始める、その瞬間の奇跡にも思える様子が劇的に描かれている。そのリアリティを私は知っている(とクソアマチュアのくせに、勝手に思っている)。また音楽をやりたい、誰かと一緒に楽器を演奏したい、という気持ちに引火してしまう。あくまで個人的な感傷と印象なのかもしれない。でも、こうした気持ちになったことで、音楽をやっていて良かったな、とも思うのだった。

yanokami / 遠くは近い

レイ・ハラカミ急逝のニュースは衝撃というよりも、あまりにも呆気なく、そして静かに人が亡くなっていくその事実を伝えるもので、くるりの「ばらの花」のリミックス音源を聴きながら、そうかあ……と思い耽ることしかできずにいた。個人的な親交があったわけでも、熱心なファンであったわけでもない。急に亡くなったから、そこで急に態度を変えて慈しみはじめるのもなんだか違うような気がするし、結局、yanokamiの新譜を買ったのもたまたま聴いていたラジオで「Don't Speculate」が耳に入り、なんだか素晴らしい音楽であるな〜、と思ったただそれだけの理由である。


荒井由実オフコース坂本龍一 & デイヴィッド・シルヴィアン、ローリング・ストーンズのカヴァーは、どれもほとんど脱構築的と言っていい解釈によってほとんど原曲がわからない形に変形される。残っているのは、具体的には言葉だけで、それが特別に印象的なのはオフコースの「Yes Yes Yes」だった。言葉は小田和正なのに音楽は矢野顕子レイ・ハラカミのものとして完全に血肉化されてしまっている、というか。以前に矢野顕子による「ばらの花」を聴いたときにも感じた衝撃がここでも繰り返される。まるで楽曲が一端極度に抽象化されて理解され、再度別な音楽へと作り変えられるダイナミックなプロセスがまじまじと見せつけられるようだ。矢野顕子の頭のなかってどうなっているの、と問わずにはいられなくなる。


このあまりに自由な感性が踊る場を与えているのがレイ・ハラカミの柔らかいトラックだったのだな。